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2019年11月の記事一覧

「報徳仕法って何だろう」~1年ふるさと教育~

 本日の6校時に1年生を対象に、NPO法人南相馬サイエンスラボの齋藤実先生を講師としてお招きし、「報徳仕法って何だろう」~1年ふるさと教育~を実施いたしました。

 

サブテーマは「二度の大飢饉からこの地を救った二人の名君」です。

 

  衣装や道具を借り、登場人物になり切って演じました。

 

 予め決められた生徒が、衣装や道具を借りて台本を元にセリフを言い、相馬藩主や家老、富田高慶や二宮尊徳を演じながら、学習を進めました。

 

    途中で質問を交えながら、理解を深めました。

 

   浅間山の大噴火により天明の飢饉が発生しました。

 

天明の飢饉では、死んだ人の体の一部を食べるなどの惨状が起きました。

 

 この大災害で相馬藩では人口が半減し、年貢収納高も大きく落ち込みました。この状況を乗り越えるために、17歳で藩主となった相馬益胤は、家臣の給与を6分の1にするとともに自らも節約し、借金をなくす政策を断行し、借金をなくすことに成功しました。

 

 

人口を増やすために加賀藩から「浄土真宗移民」を受け入れました。

 

 借金がなくなり、相馬益胤は藩主の座を息子の相馬充胤に譲りましたが、今度は天明の飢饉を上回る天保の大飢饉が起きました。相馬藩ではこの時、備蓄米を活用したり、藩の財宝を売ったりして藩から一人の餓死者を出さずに済みましたが、莫大な借金が再び発生しました。

 この危機を乗り切るために、相馬藩の富田高慶が数々の村を復興させている二宮尊徳に弟子入りをお願いし、断られながらも4カ月後には認められ、最終的には二宮尊徳の一番弟子となり、相馬藩の復興に貢献しました。

 

富田高慶の弟子の荒至重が測量技術でため息や用水路を作りました。

 

 報徳仕法が相馬藩に浸透し始め、相馬藩の人々の生活は徐々によくなりました。

 

 本校には、報徳仕法の教えを表す言葉が校舎内のあちこちに掲示されています。一つ一つの言葉が表す意味についても確認しました。

 

 最後に報徳訓を全員で読み、その意味についても学びました。

 

 1年生では総合的な学習の時間に「地域学習」としてこれまでも、地域について学んできました。今回の講義では鹿島区も含めた相馬藩の歴史、報徳仕法の具体的な中身について、改めて学ぶ大変よい機会となりました。

 先人の様々な努力の上に「今」があること知り、この地に根づいた「報徳仕法」を実践し、自分たちの力でこのふるさとをさらにすばらしいものにしていこうという気持ちを高める機会となりました。

 南相馬サイエンスラボの皆様には様々な準備をして本日の講義を行っていただきました。大変お世話になりました。有り難うございました。