全校朝の会 <東日本大震災>
< 校長先生のお話 >
東日本大震災及び東京電力福島第一原子力発電所事故等に関する話
今から11年前の平成23年(2011年)3月11日、14時46分18秒、東北沖を震源とするマグニチュード9.0、宮城・福島・茨城・栃木の4県で震度と6強の東北地方太平洋沖地震が発生しました。
この大きな地震で発生した津波などにより、亡くなったり、行方不明になったりした人は約18,000人、壊れた建物は約400,000戸という多くの犠牲者・被害を出すこととなりました。また、地震から約1時間後に津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所の事故により多くの人々が避難しなければならなくなりました。
その後、除染等や復興が進み、元の市町村に戻ることができた人もいますが、まだ戻ることができない人も多数います。その間、世界中の多くの方々から様々な支援もありました。
私たちは、この巨大地震や大津波による東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故のことを伝え続け、自分や周りの人の命を守っていくとともに、しっかり生きていく力を身に付けていかなければいけません。
今日の14時46分に、亡くなった人に祈る気持ちを込めて黙祷を捧げてください。みなさん、よろしくお願いします。
< 児童発表 > 代表委員会 6年
みなさん、おはようございます。春のおだやかな朝をむかえました。
今日は3月11日。私たちにとって忘れてはならない日です。
東日本大震災から11回目の祈りの日です。
平成23年3月11日。千年に一度と言われる大きな地震、そして私たちの地域をおそった大津波は、たくさんの人々の命をうばいました。南相馬市だけでも1,050名の方が亡くなり、今なお100名をこす方々が行方不明のままです。みなさんや先生方の中にも、家族や親戚、親しかった人を失った人がいると思います。ですから、今日は、あの日亡くなった人たちのご冥福を、みんなで静かにお祈りする日です。
11年前、私たちの先輩たちは、震災の次の日に起きた原子力発電所の事故のため、多くは全国に避難し、離ればなれになってしまいました。そして、原町に残った人たちは、毎日バスに乗って、鹿島区の学校の校舎に通学していました。当時、原町一小の児童は、鹿島小学校の三階の教室を借りて授業を行っていました。
教室が足りず、楽器用の物置を教室として使っていた学校もありました。お昼は、食料が不足して給食が作れなかったため、調理員さんがみんなでにぎってくれた、炊き出しのおにぎりを食べていたそうです。地震で水道が壊れていたので、水筒で水を飲み、工事現場のような仮設のトイレを使っていました。また、放射能が心配で校庭が使えなかったため、近くの体育館を半分ずつ交代で使って体育の授業をしていたそうです。鹿島小に集まった原一小、三小、原一中や小高小などのいろいろな学校が、不自由や苦労を味わいながらも、協力し合って生活していたのです。今、コロナによって、不自由な生活をしている私たちも、十一年前の先輩たちから、何かを学ぶことが必要だと思います。
震災は、わたしたち六年生でさえ、赤ちゃんだったころの出来事ですから、下級生のみなさんにとっては、生まれる前の、遠い昔の出来事かもしれません。しかし、私たちには、震災のことをずっと語りついでいく責任があります。なぜなら、地震や津波は、人間の力で止めることができないものであり、いつの日かまた、必ず私たちのふるさとをおそうからです。
私たちは学校で、防災についての学習や、避難訓練などを行っていますが、何より一番大事なのは、私たちの気持ちや覚悟です。
この3月11日が来るたびに、「どんな災害にあっても、自分や家族、友達の命を守り切るんだ」という決意をすることが、今生きている私たちにとって一番大切なことだと思います。
地震が発生した2時46分にサイレンが鳴ります。亡くなった人たちへの祈りとともに、その決意を胸に、みんなで黙祷をささげましょう。
令和4年3月11日