日誌

少女像のなぞが解き明かされる(1)

先週の少女像の記事を見て、二小の卒業生の方から、次のような情報を頂きました。

 

「今から40年前は、あの場所を「交通公園」と言い、そこに立つ像は「あふるるのぞみ」と呼んでいました。石こうで作られたもので、だいぶ老朽化していたのを覚えています。写真で載っていたもの、そのものでした。」

 なるほど。以前、立っていた像は石膏像だったようです。もう少しはっきりした写真はないかと、過去の卒業アルバムを見ていたところ、昭和46年度の卒業写真に以下のような写真が残っていました。

  まさに「あふるるのぞみ」「希望の像」ですね。この像は石膏像だったため、おそらく年月を経て石膏が劣化し、老朽化したため「交代」となった・・という仮説が成り立ちました。情報提供者様は当時二小に通っていた小学生でしたので確かな情報です。情報提供ありがとうございました。

 ところで、情報提供者様からは、以下のような情報もいただきました。

「当時の校舎の正面玄関に球体の石像がありました。これを「きよらにすめり」と書いていないでしょうか?今の校舎の玄関付近にあるかと思います。合わせて、旧体育館前に白鳥が数羽、石こうで作成された像がありました。これを「ゆたかにひろし」と言っていました。校歌の1番・2番・3番の和田甫氏の校歌と同調するようになっていたかと思います。「きよらにすめり」と「ゆたかにひろし」は反対かもしれません参考にまでお知らせいたします。」

 これも、卒業アルバムで確かめてみました。

 確かに、球体の石像は校舎北側に現存します。白鳥は旧体育館の南側にあったようですが、これも希望の像とともに、今はありません。ただ、どちらにしても、校歌の一節と合わせて呼んでいたり、卒業生がそれらの像のまわりで写真撮影を行っていたりしているので、当時の原二小にとって大切なシンボルだったのだと思います。

 

 以上、今回のリポートはここまで。実は、「少女像」のなぞの核心に迫る情報をもう1件頂いております。資料を整理して、後日、お伝えします。少女像を作った方はどのような方なのか?どんな思いで製作されたのか?乞うご期待。To be continued.